2016.06.23 ( Thu )

早稲田生の目から見た 早慶人格分析考


早稲田と慶応の旗

早稲田大学と慶應義塾大学・・・この両校は日本を代表する「二大私立大学」などと呼ばれていますが、双方の学生もしくは卒業生の性格は、もちろん個々人で別々の人格があるのは言うまでもないとしても、正反対にあると指摘されることも多いのです。

どちらも偏差値の面ではそれほど大差はなく、年間にかかる学費等に関しても、実はそれほど大差無い両大学なのですが、自分が学生になって入学してみると分かるのですが、すべてにおいて「真逆」なイメージを強く受けます。

受験時代にこの両校をどちらも受験する学生が多いことから考えても、この性格の差はほんの入学後ほんの数ヶ月のうちに新入生に染み込むと言っても差し支えないでしょう。

学部によって少々差はあるものの両大学には本来的にさしたる差はないはずです。それなのに、ではその違いはどうして生まれるのでしょうか。入学してわずかのたった1ヶ月という期間のうちに、新入生に何か魔物やウィルスがそうさせるのでしょうか?

今回は、完全に早稲田大学に所属する自分の主観として分析したいと思います。娯楽として気楽に読んでもらえれば嬉しいです。

愛と自虐の早稲田

大隈講堂

筆者の直感として、早稲田の性格を一言で表すなら「自虐」という感じを受けます。推薦入学やAOで早稲田に入った学生はどうかはわからないですが、受験を経て早稲田に入った学生の「早稲田愛」たるものは半端じゃないレベルです。

受験の原動力といえば「早稲田に何としても入りたい」という情熱だけだったと言っていいほど、自分の場合も燃えた記憶があって、周りの友人に聞いた感触をあわせても、東大に落ちて仕方なく滑り止めの早稲田に流れ着いたという学生以外は「早稲田第一志望」という早稲田愛に溢れた連中ばかりの気がする。

この愛情は、おそらく筆者と同じように学年を重ねてもそれほど色あせたり変わることはないと思うのですが、なぜ「自虐」という考え方がうまれるのでしょうか。

それはあまりに最初の理想が高すぎたことにあるのではないでしょうか。受験時代に自分は、「早稲田に入れば受験勝者!エリートだ」などと、恥ずかしながら淡い期待を持っていたものでしたが、いざ入ってみると変わらぬ日常。

早稲田生の第二の家ともいうべき高田馬場ロータリーはゲロと女子大生の抜け殻で溢れかえっているし、学校生活とも言ってもイマイチパッとしない普通の授業風景。学校生活に慣れてサークルに通い始めようものなら連日連夜の飲み会。飲み会。飲み会。酔いつぶれて語学をサボるなんて日常茶飯事という生活が待っていたりするのです。

こんなものが思い描いたエリート大学生なわけがない。どちらかというと高校までのまじめな生活を送っていた人間から考えると「ダメ人間」と呼ばれる像が目の前の自分を包み込みます。

しかし、おそらくこの大学生生活は何も早稲田に限られたダメ人間っぷりではないはず。慶応に行ったって東大に行ったってこういう大学生活を送っている学生は多いはず・・・そんなことは当然アタマでは理解しているのです。

自信があるから自虐する文化

ではなぜ早稲田の学生だけが自虐するのか。それはやはり大学に受け継がれた文化のせいではないかと思います。

大学の先輩は大学をこき下ろし、それを聞いた後輩は先輩になったときそれを後輩へ伝える。TVでは早稲田のOBが早稲田をこき下ろす。筆者は勝谷誠彦氏が「早稲田はクズを生み出すゴミ屑みたいな最低の大学」と言っていたのがとても印象的でした。

しかし、忘れてはいけないのが、これは真に早稲田を嫌った批判ではなく(勝谷誠彦氏は本心かもしれないが)一種の慇懃無礼というか、語弊を恐れず言えばマゾの自慰行為みたいなものかもしれません。

これも自分の主観にすぎないかもしれませんが、母校をクズ呼ばわりする人ほど優秀な場合が多い印象があります。それは自分の地位を支えているものが単なる実力に加えて、早稲田という名前の持つ力であるということを重々承知している表れとも考えられるのです。

だから母校を批判するのはたまらなく気持ちがいい。それは、自分の地位を支えているものが、単に自分の力だけで肩書きの威光など借りていないといった錯覚に浸ることができるからです。

だから早稲田の自虐史観は止まることはないのです。自虐感こそが、自分は何者でもないといういわば自由な感覚、そして自分には個としての力があるというある種の誇大妄想を生み、より大胆な挑戦の動機を生み出していると言えば、少し大げさでしょうか。

加えて、若い世代の早稲田の学生卒業生の自虐史観をより強烈にするのは、やはりOB・OGの問題行動、それを批判するマスコミ、2ちゃんねる等のメディアの存在も忘れるわけにはいきません。

そして、筆者はこの若い世代の早稲田関係者と古い世代の早稲田関係者とが抱く自虐感は根本的に異なる場合も多いと思うのです。それは、昔の世代が持っていた「仮の自虐感」に加えて、新しく生まれた「新種の自虐感」、つまりは実力に裏打ちされた謙虚さとしての自虐ではなく、本当の絶望というか自信のない自虐があると考えます。

最近は悪い情報は瞬く間に雑誌やネットで広がってしまいます。若い世代などは自分の世間体を気にしがちですから、それがネット依存と相まって、より本当の自虐を広めていきます。

早稲田の場合は、やはり名前は敢えて出さないですがOB・OGの失言や奇行、迷言(例として「私には見えないものが見える」)などが様々なメディアの好奇心をあおって大々的に取り上げられる分、それに対する世間の反応も受け取りやすいことがあるでしょう。

筆者流に「早稲田の強さの源は自虐感」と考えてみると、最近の早稲田の学生が抱えている、本来は正しい意味の自虐を廃し独自の自虐感を取り戻すことが必須なのではないかと思えてしまいます。

自信の慶応

慶応大学

「自虐の早稲田」とここまで述べてきましたが、対する慶応を一言で表すとすれば「自信家」という印象が強い気がします。早稲田の学生が「母校愛」を強く持っていると言いましたが、おそらく慶応の場合の「母校愛」も、実はそれどころではないのです。

幼稚舎組は当然名門家出身者も多くエリート意識を持っているのは当然ですが、引けを取らず受験組も強いエリート意識をもっている場合が多いのです。

それはやはり私学で一番高い偏差値がある学部を持つ慶応へ入ったという受験勝者的な優越感もあるであろうが、加えてマスコミの作り出した誇大な慶応像への無垢な信仰心も影響しているかもしれません。

バブル期の「3高」の特集などの際を振り返ると、いつも決まって「慶応は、モテる、高収入」などと持て囃されていたのです。この幻への信仰心が今なお遺伝子レベルで先輩から受け継がれ続いている印象さえあります。

その結果、遊びに行ったクラブでの自己紹介の際に「オレ慶応なんだけど」などという、ある意味で冷や汗ものの言葉を操れてしまう源泉なのではないかと勝手に想像してしまうのです。

よくよく考えれば、クラブというシーンでは、ハーバードだろうが東大だろうが慶応だろうが、学歴など話題に出す必要もなければ、相手だってそんなことに興味はない場合の方が多いはずで、そんなことは最初から理解している筈なのです。

兎にも角にも、慶応の自信の源泉には幻としての慶応像、一般入試組の中流家庭には関係のないエリート像があるのは確かではないでしょうか。

就職に強い慶應というイメージが本当に就職に強くする

そんな一方で、本当に力のある慶応像というものも見られます。

慶応は何と言ってもとにかく就職に強いのです。公務員志望や非大手志望を排しないとしても、常に50%以上の学生が大手企業へ就職するのです。

大学生活の長期的な目的は、とりわけ高学歴と呼ばれる大学に行けば行くほど、「いかに給料の高く世間体が良い企業に入るか」ということに集約されていく傾向があります。

そんななかで、志望すれば大手企業にほぼ入ることができる慶応生はある種の一流大学生としての裏付けを持っているといっても良いでしょう。この安心感や優越感が自信へとつながり大学全体としての雰囲気を醸成していると考えれば筋が通ります。

しかし、この自信、安心感を他者が自分同様に抱いている、という幻想を抱きやすい性質を慶応生が持っているという事もいえそうです。

例えば、先ほどのマスコミが作り上げた慶応生像はあくまで自ら見ようとする人にのみ見えるものであって、それに関心のない人、つまりは非慶応生にとってはどうでもいい事でしかないのです。

この両者が抱く認識のズレは、時として大きな軋轢を生む場合があります。つまり、慶応生がその像を持ってすれば簡単に説得できたり、物事を実行できたりすると思い込んでいる事が、当の相手方にはその像はないのだから当然に好き勝手には動かないというような場合です。

または、無垢な大学生に対してなら通用していたかもしれないその像が、社会に出た途端に一切のチカラを失うかもしれないことも挙げられます。

よく、「慶応生は打たれ弱い」などと言われるのは、この虚像に頼りきって物事をうまく進めてきたのに、ある時点になって実は実体のない像だとわかってしまった時の絶望や無力感に原因があるのではないかと筆者は考えてしまいます。

誰か仲間が支えてくれる安心感

もちろんこの虚像は、実態がない事に気がつかなければ最高の自信へとつながり成功へつながる可能性を秘めています。慶応の卒業生のとてつもない活躍を見れば、みな自分の確固たる実力に加えて、虚像をうまく利用して社会での成功をおさめているように映ります。

この自信という感情は一見他大学、例えば慶応よりも上にある東大生でも持っている同種の感情のように思えます。しかし、それでいてその両者の性質は決定的に違っているのです。

東大生の自信とは単なる自分への自信、賢さや受験勝者としてのエリート意識である可能性が高いでしょう。しかし慶応のそれは、単なる賢さである以上に、自分のこれからの境遇への自信、自分を取り巻く圧倒的な力(学閥の:それが実際には虚像であっても)への安心感が加わっているのです。この互いに慶応生同士連体感をもち助け合おうという意識こそが、社会での慶応の圧倒的強さなのかもしれません。

慶應生は、慶應義塾大学の塾という文字をとって自分たちのことを塾生と呼びます。あくまで学生ではなくて塾生なのです。この言葉を使う仲間同士の連帯感が、社会に出てからも先に社会で活躍する先輩たちとの距離感を一基に近付けてくれるからこそ、コミュニティの絆が強くなっているように見えるのです。

早稲田生と慶應生の共通的な文化土壌

このように見ると、両大学とも一見正反対に見えるのですが、その両大学の学生が「自虐」と「自信」という感情を文化として受け継いで、それを確固たる強みにしている事がわかるでしょう。

それは、一見どの大学の学生でも持っている感情のように見えるかもしれませんが、この両校に限っては度合いが一段と違うように感じます。実際、大学愛が文化として学生に根付いている一つの指標に「どれだけの人が母校の校歌を歌えるかの割合」が挙げられるでしょう。

早稲田生は95%以上の学生が自分の大学の校歌を歌うことができ、慶應生も70%以上の学生が歌えるとの調査結果があります。全国的に見た時に大学の校歌を歌える割合は平均で10%以下ということから考えると、その「大学愛が文化として成立している」姿を肌を持って感じられる良い例だと思います。

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